のざわ牧場の想い:お客様に「地元の恵み」×「本場ドイツの技術」を味わってもらいたい
のざわ牧場の作るハム・ソーセージは、地元である富士宮の、富士山や自然豊かな環境で活き活きと育った豚の味わい、そして、ハム・ソーセージの本場であるドイツの作り方を伝授された私の技術のコラボレーションを感じていただきたいと、日々製造・加工しております。
地元の人たちに本当に美味しいハムやソーセージをご堪能いただきたいと、社員一同毎日心を込めて作っております。ぜひ、一度当社のハム・ソーセージをご賞味いただきたいと思います。
のざわ牧場のこだわり1:自然豊かな環境で育った豚を使用
のざわ牧場の所在地である、静岡県富士宮市は、言わずと知れた富士山の所在地です。そのほかにも朝霧高原や水がきれいであることで有名な、自然が豊かな環境の地域です。野澤牧場はそこで育った豚だけを使用して、ハム・ソーセージを製造しております。飼料にもこだわり、味わい深い商品に仕上げます。
また、ハム・ソーセージ作りには加工機械も重要です。メーカーとの話し合いを密に行い、より美味しい商品ができる機械を取り入れるよう日々研鑽しております。
のざわ牧場のこだわり2:ハム・ソーセージの本場、ドイツの手法で製造・加工
日本におけるソーセージの歴史を紐解くと、明治43年にさかのぼります。文献によりますと、はじめてソーセージの加工技術を伝えた日本人は、その食肉加工技術をアメリカでを学んできたそうです。しかし、ソーセージの本場は、ドイツ。実はアメリカのソーセージの作り方とドイツの作り方は異なる部分があります。
のざわ牧場は、「お客様に本物のソーセージをご堪能いただきたい!」とハム・ソーセージ加工事業を始めました。そのため、本場ドイツにおけるハム・ソーセージの作り方を学んで参りました。作り方が違うと、歯ごたえや舌ざわりが変わります。これは美味しさに直結する大切なことです。一般的なハム・ソーセージは調味料を多く使うことで濃く味付けをしています。当社の商品は数%の塩加減で、味を引き立てることにより、素材を活かした製品づくりを心がけています。昨今子どもの食品アレルギーも問題となっております。それにより、お子様にもお召し上がりいただきたい逸品です。
実は、ソーセージにも「食べ方」があります。本場ドイツの食べ方もお伝えできるよう、今後ホームページでもお伝えできればと考えておりますので、ご期待ください。
弊社社長による「JA青年の主張・静岡県発表大会」の模様
テーマ『リスクをチャンスに』
私の住む村山という場所は、富士山を南から望む、自然豊かな緑に囲まれた地形であって、決して拓けた場所ではありません。
そんな田舎ですから農業をするには打ってつけではあるものの、夜には人気もなく静まり返っていてさびしい場所でもあります。
私は、この場所で生まれ育ち、農業高校を卒業して直ぐに就農しました。というのも、私が中学二年の夏に、大黒柱である父が病に倒れ、当時三十頭あまりの牛の世話を母が一人で切り盛りする毎日だったこともあり、家業でもある酪農を志しました。更に、私が就農する頃には、畜舎を五十頭飼育に規模拡大をしていて、否応なしでした。
就農当初は、何頭もの牛を死なせてしまい決して儲かる酪農経営ではありませんでした。そんな中、自分のやる気に火がつき、昭和から平成にかけて絶頂期を向かえたのです。普通の酪農ではなく、私の経営は、搾乳をしながらその牛を肥育し高値で販売するといった、いわゆる乳肉複合経営でした。更にその頃、和牛とホルスタイン種を交配したスモールが高値で取引されていて、その頃の農業所得が人生最高額でした。
平成8年からは和牛の受精卵移植を導入し、和牛の仔取り一貫経営を始めました。初めての和牛の出荷で、私は、東京の枝肉市場に出向き、この目でA4ランクに格付けされた枝肉を目の当たりにし、私は自分の肥育技術を確信し、更に、和牛の肥育に力を注ぎました。
そんな中、平成十三年九月、思わぬ出来事が起きたのです。BSE(牛海綿状脳症)またの名を、狂牛病などいう、いかにも恐ろしい病名が世間を飛び交い、肉相場は一転したのです。やっとの思いで、A5ランクを出荷し始めた和牛は、二割以上の下落でした。ホルスの経産牛などは、と畜するとお金を出す有様で、私は愕然となりました。
しかし、肩をおとしてばかりはいられません。そこで私は「ならば自分で売ればいいじゃないか」と考えたのです。
その頃、美味しいハムソーセージを作る職人との出会いもあり、牛肉100%のハムを作って頂くことになりました。加工には向かないロースなどの部位は、お肉屋さんを紹介していただき、1キロパックのスライスとステーキを真空パックしてもらい、知人、友人、親戚などを売り歩きました。
しかし牛肉だけでは商売としては厳しいものがあり、私自身が肉屋になることを選択しました。ですが、店舗を作ってみたものの、こんな山奥にお客様が来る訳も無く、やむなく冷蔵設備付き移動販売車を購入し地元を隈なく売り歩きました。又、お客様のニーズに合わせ、地元の豚肉、鶏肉、更にはお惣菜なども販売するようになりました。もともとは母が野菜農家の直売所にお惣菜を出荷していたこともあって、次々と商品化することに抵抗はありませんでした。開業当初は365日休むことなく朝から晩まで一軒一軒売り歩きました。その間、酪農は従業員に任せることも多くなり、業績は下がる一方でしたが、新しく始めた事業を成功させるため、とにかく必死でした。
私は酪農を30年間がんばりました。今は和牛の肥育をしながら肉屋を営んでいます。私は農業を続けていく上で、最も重要なことは、人との出会いであると考えています。私は就農して直ぐに農協青壮年部に入部しました。その後アメリカの農業視察研修に参加させていただき、外に出ることの重要性を体感できました。生き物を育てる仕事は365日休むことのできない仕事ではありますが、ヘルパー制度の普及も重なり、外に出る為にありとあらゆる手立てをして、東京への出張は勿論のこと、時には北海道への視察も日帰りでこなすこともありました。昨年まで12年間任命されていた県連委員は当初3年間は皆勤賞を、夜の部に関してはそれ以上でした。それほどまでに、人との出会いを、外に出ることの大切さを私自身感じ取っていたのだと思います。
私は、この発表大会を私のような年輩者が話をするのではなく、まだまだこれからの若き青年部員が発表し、意見を述べるべきというJA富士宮青壮年部部長としての思惑があったのですが、その思いは叶わず、ならば自分が何かひとつでも若き農業者に伝えることができるのであればと考え方を変えてみました。
「リスクの無いところにチャンスは無い」
「大筋で合意ならば、道筋を作るべき」
「手間ひまという価値を付加価値にすること」
皆さんは、日本の農業に明日の未来を、そして子供たちの未来を築くことができますか?買って下さい、よりも売ってください、スーパーの安いよ、安いよ。よりも農家の安心だよ。安全だよ、食べ物は保存食品よりも新鮮なものを。我々が常に心掛けるべきだと思います。子供たちは大人を見ています。真似をします悪いことも、良いことも、子供たちはそれを良いことだと思って真似します。
「いいものを安くっておかしくないですか?お値段以上は無いのですよ。お値段通りの方がお似合いじゃないですか?」
上手い話には裏があるでしょう。うまいものには根拠があります。私はお肉やお惣菜を売り歩いて15年になりますが、お客様に「ありがとうね」「ご苦労様」ってよく言われます。勿論、私も「お世話になります。」「またお願いします。」と返します。そんな日が今も続いています。
私の目指す農業とは、理屈ではなく、常にその時代に柔軟に対応した食を作ること。その為には、私自身が常に進化することの大切さを覚えるのです。
私は今、ハム作りをしています。家畜は、肉の塊になっても生きているのです。毎日この手で肉を切り、肉の感触を指先で感じ、手際よく腸詰までこなし、それを調理して食し、本物の味と食感を作り出すのです。
私は自分の育てた和牛で、ビーフジャーキーを作りたくて、この世界に飛び込みました。本来、和牛の様に霜降りのお肉は、脂が酸化しやすく食肉加工には不向きと聞きますですが、私は世界にたった一つの自分だけのビーフジャーキーを作りたくて、『霜降りのビーフジャーキーがあってもいいではないか』と試行錯誤している今日この頃です。
チャンスは必ずやってきます。ただその心構えが必要なだけです。待っているだけではなく、自らが出て行くことも必要だと思います。私はこれからもハム屋を志しますが、私はあくまでも牛飼いです。生き物を育てる心が無ければ、美味しい食には辿り着けないと思うのです。勢いで飛び込んだ世界ですが、今は好きでやっています。
私は今年の二月、群馬にある食肉学校で30日間、食肉加工の勉強に参加して参りました。かなりのリスクがありました。ですが、これからの私の夢にまた一歩前進することができました。いつの日か誰もが認めるハム職人に私はなります。